捨てられない本たち

投稿者: | 2015年3月7日

最近は、紙の本を買うことが、極端に少なくなりました。
Kindleが便利だということもありますが、そもそも、なるべくモノを増やしたくないということがその大きな理由です。

9年前に今の結婚をしたときに、溢れていた本をかなり捨てました。
6年前に子供が生まれたときにも、更に捨てました。
そして去年の末、物置と化していた部屋を、子供に明け渡すため、またまた本を整理しました。

不思議なのは、新しい本ほど、簡単に捨てられるんですね。
それは、昔の方が、1冊の本に、作り手がエネルギーを注げる環境にあって、それだけ丁寧に作られたものが多いということもあると思いますし、学生時代に読んだ本は、時代を経て残ってきた古典といえるようなものが多かったということもあるでしょう。もちろん、若いときは、自分自身がその本から受ける影響や印象もそれだけ深かったということも大きいと思います。

いよいよ3月末には、完全に子供に部屋を明け渡さなくてはいけないので、改めて本棚を見て、もう少し捨てられないかなと思うのですが、逆に懐かしくなって、またページをめくってしまったり。
特に大学の卒論のために読み込んだ哲学書は、今でも自分の考えのベースになっていることに気がついて、もう読むことはないと思うのですが、どうしても捨てられないのです。

そんな中、久しぶりに目にして、一番胸が締め付けられるほど懐かしかったのが、大江健三郎さんの「同時代論集」です。 

私が高校3年の11月から刊行が始まり、毎月1巻ずつ、浪人時代の8月まで計10冊が発売され、毎月本屋で買い求めては、乾いたスポンジが水を吸収するように、読んでいたことを思い出します。
大江健三郎さんは、高校の教科書に載っていた「鳥」という短編がきかっけで興味を持ち、「芽むしり仔撃ち」という長編を読んで、更に深く知りたいと思っていた時期だったので、タイムリーな刊行でした。

大江さんは、小説が素晴らしいのはもちろんですが、エッセイは(特に若い頃のものは)、小説に比べて難解ではなく、同時代の様々な出来事や作品について、豊かな知見を与えてくれるものでした。この「同時代論集」を入口にして、本当に多くのことに目が開かれ、他の本に広がっていったりしたのです。
高校の終わりから浪人時代という、多感で、将来の不安もあり、かといって受験勉強だけでは飽き足らない、好奇心に満ちた年齢の人間にとって、とても刺激になり、知の土台となるような経験でした。

 その後、大学に入学し、大江さんの新しい小説が出るたびに読んでいましたが、そんな頃、私が通う大学に講演にいらっしゃっいました。聴講した私は、終了後にお願いして、本にサインをもらうなんていう、ミーハーなことをしたことを覚えています。

もちろんその時は、その7年後に、自分が大江さんに手紙を書いて、仕事をご一緒するようになるなんて、夢にも思わなかったわけですが。

人生、全てが繋がると思った、大きな出来事のひとつです。
この本を捨てられるのは、一体いつになるんだろうと考えると、ちょっと気が遠くなります。
もしかしたら、生きている限り、捨てることはできないのかも知れません。


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